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前未来的語り部

懐かしい現在

おそ松さん手術

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やりたいことが多すぎて、それらを実現するための時間が足りない。せめてあと5人ぐらいの自分がいれば、もっともっとたくさん面白いことができるのに!!
うむ、どうしたらいいのだろうか。。。
いっそのこと『おそ松さん』みたいにならんかなあ。
完全に同じじゃなくてもいいから、自分に似たような6人の兄弟に僕を複製する特殊な手術を受けるのだ。
遺伝子工学」や「3Dプリンター」や「人口知能」が発達した現代なら、そろそろ可能になるのではないだろうか。
まずは僕の遺伝子細胞を取り出して、それを人体複製専用の3Dプリンターにセッティングする。
次に、出来上がった5体の僕の複製人体に、最初に抽出した遺伝子に含まれるデータを元にプログラミングした人工知能を埋め込めば、『おそ松さん手術』は無事完了だ。
ただし、どれほど技術が発達したとしても、技術的に発生する若干のバグや、社会的な混乱を多少抑えるための妥協策の一環として、複製した5体の僕は下記のように若干性格が異なる。
これは仕様だ。
次男:かっこつけすぎな僕
三男:常識人な僕
四男:卑屈な僕
五男:アホな僕
六男:世渡り上手な僕
まあ、まったく同じ自分があと5人いてもつまらないし、こちらの方が賑やかでいいかな。
いや、でもよく考えてみよう。。
僕が計6人になってしまったら、結局は他の「松」に頼ってしまって何も成し遂げられなさそうだ!!
うん、僕という人間は僕一人しかいないからこそ頑張るのだ。
やっぱり手術は延期しよう。
そんなことを考えながら僕は翌朝が納期の仕事に手を付け始める。

ファッションセンスの功罪

 ファッションセンスに卓越した人の一部に、その巧みな着合わせがあるにも関わらず見ていてあまり気分が良くならない人というのがいる。などと言うと私個人の僻みのようにしか聞こえないかもしれないが、これは「ある程度経験則」である。だからといって、ファッションセンスのない人が人間的にできているのだと言い切れるわけはもちろんないのであるが。


 ファッションというのは自分を着飾ることを目的とした技術である。言い換えれば「実際の自分」よりも自分を大きく見せることができる代物ということである。ある程度のお金とある程度のファッションに関する学と最低限のセンスがあれば、街を「堂々と」闊歩することができる。これは案外すごいことである。というか、効率的なことである。これほど簡単に、そして持続的かつ安定的に他者からの承認が得られる方法論は他にはない。だから自分に自信がない人にとっては「ファッションセンスを高める」というのが、自信をつけるのに最も手っ取り早い方法の一つとなる。


 車の運転をすると人は傲慢になりやすい。いつもならば身長170センチメートルの生身の人間もひとたび車を動かすことになれば、大きな鉄の塊と自分の肉体を想像的に同化させることができるからだ。身長の高い人がどこか自信に溢れているように、鉄の塊と同化している人は、車に乗っていないときと比べてどこか自信に満ちている(あるいは、傲慢になる)。人間は自分の身体的サイズと人格的サイズを混同する生き物だからだ。


 卓越したファッションセンスは、歩行しながらあたかも車に乗っているような気分になれる魔法のような能力である。自分の人格的サイズを肥大させることができる。
 さて、世の「ファッションセンスに卓越した人」というのはこの構造を理解していながら、日々そのセンスを練磨しているのだろうか。私は懐疑的である。いやしくも「ファッションによって自分の身体サイズが大きくなっている」という(言葉にならないまでも)感覚的な自覚があるとするならば、彼ら・彼女らの性格はあそこまで悪くならないからだ(ファッションセンスも性格も良い人には申し訳ないが)。人格的に成熟していない人が自分に法外な自信を持っている時こそたちの悪いことはない。その自信の質はきっと良くはないからだ。


 「自信の質が良くない」とはどういうことか。それは、他人の気分を害する自信だということである。他人の気分を良くしてくれる自信というのは存在する。その人と接しているとどこか元気が出て、自分も何か大きなことが成し遂げられるのではないか、これから何かチャレンジしてみようか、この人について行ったら自分が成熟に導かれるかもしれない、などと期待を湧かせてくれるような自信である。それらは「質の良い自信」である。


 一方「質の悪い自信」というものがある。これは要するに「傲り」である。その人と接しているとなぜかエネルギーを奪われ、その人の劣位に位置する自分を許容することが難しく、人を見下している態度が言葉や所作の節々に現れ、敬意を抱くことができないような自信である。


 ファッションセンスに卓越した人は、この「質の悪い自信」を持っていることが多い(気がする)。しかし、それは「ファッションセンスを磨くことはやめるべきだ」という警句を導くものではない。だって、ファッションセンスの優れた人が街中にいたら、なんて素敵で目に楽しい街並みになることだろうか。それ自体はとても素晴らしいことである。問題はそこではない。私が憂いているのは「私はファッションによって人格的サイズが大きくなっているような錯覚を得ているのだろう」という自覚を持つことによって、節度のある態度が取れる「大人」が少ないということである。それは車の運転手が「私はこの鉄の塊と身体的に統合し、それによって人格的サイズも肥大している状態にある」という自覚を持つことと構造を一にする。大きな車(バスやトラック)の運転手が傲慢な性格になりやすいのと同じように、ファッションセンスが高い人こそ、こういった「傲りの自覚」がないとそれこそ無自覚的に性格が悪くなっていく。


 ファッションセンスを磨いて自信を持つことは良いことだ。矛盾するようだが、ファッションから得られる自信自体は悪いものではない。休日に一日中パジャマで過ごすのと、ピシッとした服に着替えるのとでは、その日一日の生産性に大きな差が出るだろう。これは紛れもなく「ファッションから得た自信」による効果である。これを有効活用することは責められるべきことではないし、むしろ奨励されるべきことだ。


 それはそれ、これはこれ、である。ファッションから得た自信はファッションから得た自信に過ぎない。きちんとしたファッションができることはその人間が敬意を抱かれるようになる遠因にはなっても、その直接的・単一的原因には決してなりえない。


 というようなことを言葉で説明するのはなかなか困難で煩わしい作業である。このような知的営為を意識的に行いなさいなどと人々に勧奨しようというのは私の企図するところではない。しかし、なんというか、言葉で説明できなくても直感的にこれくらいのことは分かってほしいのである。自分の心理状態を日ごろから具に観察できていればこれくらいのことには意識が及ぶはずなのだ。となると問題の発端は、「自分に対する観察能力の低下」にあるのではないかと私は思い至ったのであるが、これに関しては長くなりそうなのでまた今度。(それとも「傲慢な自分」というものに違和感を感じる価値観というものが衰えているのかもしれない。どちらにせよまた今度書くつもりだ。)

不安定型の強み

安定型は確かに物事が持続できて精神も人格も気分も思想も安定おり、周囲に安心感と信頼感を与えるかもしれない。

しかし不安定型は高速に精神状態や人格、思想や行動パターン、方向性を変化させるが故に短期間において多くの「カード」を獲得することができる。

未熟な内は常軌を逸したスピードで変化する自分に身体をついていかせるのが精一杯だったり、精神を疲弊させてしまったり、自分が信じられなくなるかもしれない。

でも自分を精密に観察することさえ続けていれば、いずれ必ずそれらの人格はある程度コントロールできるようになってくる。

安定型より数多くの振れ幅の大きく深いところまで突っ込んだことのある人格の数々は、もちろんすべてがあなたであり、その「あなたたち」とどうタッグを組んでどのように人と触れ合って行くかはあなたの自由なのである。

 だから、例え苦しい時があろうとも「ポジティブで無敵の自分」と同様に「弱くて粘膜むき出しの自分」も愛してやってほしい。

どちらも必要な「あなた」であり、彼ら・彼女らにあなたは救われも報われもするから。

母校「海城」を訪れて

海城中高学校は間違いなく僕の母校であり、僕はそこで青春時代を過ごし、受け入れられ、これほどまでに社会に適合できないにも関わらず卒業するまで通い続けることができた。

僕としてはそれは紛れも無い奇跡であり、受け入れてくれた先生やクラス、部活、校舎の全てに感謝をしたい。


ありがとう。


青春時代は自分を抑圧していたのかもしれないが、それでもそこに居続けることはできた。
恵まれた青春時代だったのかもしれない。
今日母校に訪れてそう思うことができた。どうか、あの空気をいつまでも残して欲しい。


斉田先生も関野先生も宇津川先生もいない。
それでも、どうかあの自由で個性を許容し、高入生という外部の新しい風も吹き込み、 反骨心のあるいたづらをする生徒がいて、ある種めちゃくちゃだけど無限の可能性に開かれたあの学校を、どうか、どうか残し続けて欲しい。


今は変わってしまったようだ。今日話した先生によれば、高校入試はなくなり、生徒の個性は均質化し、大胆な授業をする先生は減り、予備校としての進学校を要求する生徒や親が増えたようだ。
海の家はもうない。めちゃくちゃな斉田先生も宇津川先生もいない。
いてもきっとクレームが来るという。
違う、そうじゃないんだ。もっと破茶滅茶だった。


受験なんて最後の最後で追い込んで結局良い学校に進む生徒が多かった。
本質を知るにはカリキュラムに沿っていてはダメなんだ。
エリートでも、アウトローでもない、アウトサイダーを生むようなあの空気が好きだった。


そのことに僕は、卒業してから6年経って、ようやく気がついた。


あんな自由な学校は、中々ないんだよ。

 


ーーフジファブリック『赤黄色の金木犀』を聴きながら

文化を生むために

文化はビジネスからは生まれない。魅力的な人や感動する作品、落ち着く場所や、表現したい欲求があればそこから自然に生まれる。

人はそれぞれ自分の文化を必ず持っている。まずはそれに気づくことだ。そしてそれをどんな形でもいいから表現してみることだ。

まずはそこからだ。


新しい職業を作り出すのは大変だけど、これは絶対世界で一番カッコいい職業になるわ。

 

芸術方面で食っていける人に共通する意識としてあるのは恐らく「自分の中にある誰もやってない美しいものを誰かに見せてあげたい」という純粋な欲求があるということだ。

FoZZtoneのすごさ

『Reach to Mars』と『Return to Earth』というまるで相反する二つのコンセプトアルバムを各々あそこまでの完成度に仕上げた事実こそが、FoZZtoneのオールラウンダーぶりを物語っている。
まるで1つのバンドとは思えないほど。

 

FoZZtone『口笛男』

こんな曲をつくれるやつが他に世界中のどこにいる

www.youtube.com

 

折に触れて思う。なんでこのバンドが世間に知れ渡っていないんだ。その事実に違和感があるし、不自然だと思う。怒りさえ湧いてくることもある。それはまだ僕が若いからなのだろうか。だったら大人になる必要もない。

 

youtu.be

MacからWebARENAのクラウドVPSにSSH接続するには

WebARENAのクラウドVPSは、仮想サーバーを起動する際に既にコントロールパネルで作成した鍵が設定され、その時ダウンロードする秘密鍵によってでしかSSH接続しかできないように設定されている。

 

仮想サーバーの起動が済んだあとに、MacのターミナルからリモートへSSH接続しようとしても下記エラーが出てしまう。(僕の場合は-i オプションで秘密鍵のパスを指定してもダメだった)

Permission denied (publickey,gssapi-keyex,gssapi-with-mic).

 

色々調べたけど、どうしてもターミナルからは接続することができなかったので、結局FileZillaの設定から秘密鍵を指定してSFTPで接続してみた。/root/.ssh/authorization_keysと、通常の公開鍵認証と同じ場所に公開鍵ファイルがあったので、このファイルを上書きすればなんとかなると踏んだ。

 

ローカルで新しい鍵を作成してから、公開鍵(~/.ssh/id_rsa.pub)をSFTPでリモートの/root/.ssh/にアップロードし、authorization_keysに名称変更したら、無事ターミナルから下記コマンドで接続することができた。

ssh root@IP Address

 

SSHもSFTPもローカルからリモートに接続している点は変わらないので、SSHで詰まったらSFTPを使用すればいいのだと学んだ一件だった。

99/100による淘汰圧

何か思いついたアイディアがあれば、少し時間を置いて寝かせることによって現実化の可能性を上げる方法を最近までとっていた。僕が思いついたことは「それだけじゃだめだ」と思っていたからだ。
でも、寝かせることによって真に、純粋に正しくあろうとした気持ちは確実に薄れてしまうもの。

時間を置けば確かに実現可能なアイディアになる。人を巻き込む必要もなくなる。
でも、時間を置いたらその分アイディアは丸くなる。妄想の域を出てしまうのだ。

多くの人が言う「常識」なんかよりも「妄想」の方が圧倒的に正しいことが往々にしてある。100人いたら馬鹿の方が多いらしい。

「この世界で今一番正しいのは僕だ」。そういう「妄想」とどれだけの回数折り合いをつけて来ただろう。折り合いをつけるには自分の中で消化するのが一番だ。
しかし、それが現実に昇華するのは自分の外に出たときなんだ。
僕の妄想は正しい。絶対に。
棘のない妄想は既に「計画」だ。

丸くなった「妄想」はもう「妄想」ではない。
本当に簡単なんだ。大人になるってことは。
100人いたら馬鹿の方が多い。馬鹿の淘汰圧になんとか勝たなければならない。
そもそも普通に人と関われている時点でその淘汰圧の影響は多大に受けている。まずは量だ。淘汰圧に勝つにはそれしかない。

妄想したっていいじゃない

そうか、妄想はしたっていいんだ。

そもそもなぜ妄想が「妄想」になるかというと、想像したことが現実になる可能性が低いからだ。

「ああ、アイドルとか女優と付き合ってみたいなあ」

という呟きが「妄想」とされるのは、その人が実際にそういった人たちと付き合える可能が限りなく0であり、また本当に実現させようとする気概もないからだ。

立場の問題や技術の問題で実現できないような「妄想」はこの世に五万と溢れている。妄想は一時的なアイディアだ。それはとっても良いアイディアのはずだ。だから妄想は実現に向けて自分や周囲に働きかけるべきだ(それが悪いことでなければ)。

しかし、そんなことはいきなりできたものではない。

だって「現実」という重りが妄想には絡みついているからだ。だから僕はこう思うのだ。

妄想は一旦諦めていい。しかし、どんなに些細なことでも、努力をやめてはいけない。マラソンというのは「ほんのちょっとしか進むことのできない一歩の膨大な集積によって、一定の時間内に生身の人間が移動できるとは到底思えない距離を走る1つの奇跡」である。

妄想は一度部屋の隅にでも寝かせておけばいい。その代わり、ちょっとでもいいから「昨日よりマシな自分」を毎日つくるんだ。それは必ず「準備」になる。準備があればチャンスは来る。そしてそれは必ず自分以外の人によってもたらされる。

そのとき、かつての妄想は純度の高い「目標」となっている。

びっくりするさ。だってあのときの「妄想」が、いつのまにか手の届く範囲に来ているのだから。

まさに時空を越えたワープである。

「夢を持つ事が大事」という命題には賛否両論があると思うが、これだけは言える。

 

妄想を現実にすることは可能だ。

『学校へ行こう!』はどこへ行った


学校へ行こう!』という番組がありましたね。本当に素晴らしい番組だったと思います。

あの時は「テレビって本当に面白いな」って純粋に思ってました。

今は当時とどこか空気が変わりました。往年の名番組を一夜でも蘇らせたことによってその差異は如実に現れたのではないでしょうか。


学校へ行こう!』が放映されていた時期は、まだテレビ全体に自由な空気が流れていた。

インターネットの隆盛に関わらず国民的なテレビ番組が少なくなったのは、きっとその自由な空気が微妙に、しかし確実に濁ってしまったから。

何か一つでも風穴を開ける番組をゴールデンに。

たった一つでいい。

たった一つ、自由で馬鹿でセンスが良くて視聴者を巻き込み、視聴者に確固たる世界を伝えられるような番組が現れれば、必ずそれに続く番組が出てくる。

WEBサイトを作ってる僕が言うのも変ですが、テレビ関係者の皆さん、インターネットに圧倒的に勝ってください。

ネットが栄えた今、テレビはそのプロフェッショナルな面白さを見せつける最大のチャンスだ。

"いま某局の人とお話ししてるんですが、なぜ最近のテレビはつまらないか率直に聞いたら
テレビマン「苦情がくるからです。大食いやったら勿体無いと言われ、ツッコミ入れたらいじめだと言われ、最終的にクイズしか作りづらくなった」とのこと
ちなみに学校へ行こうにも苦情があったとか"(@uekome)

やっぱりテレビが面白くなくなってしまったのは視聴者にも原因がある。

今はどこか社会全体がクリーンを求め過ぎている。そのせいでグレーゾーンから生まれるクリエイティブが減っているのではないだろうか。

私はなんとかしてその空気を変える。