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前未来的語り部

懐かしい現在

形而上的野暮な自分

 僕は、なんでも屋になりたい訳ではない。多分野にわたって世の中を楽しみたいのは事実だが、その一つ一つはどれも「極めたい」ものたちだ。願わくば、どれをとっても一日24時間のうち12,3時間ぐらいの時間を割ければよいなと思う。しかし、そのようなことはもちろんできない。時間は有限であり、一人一人に与えられた時間は1日24時間と、王将を取られたら将棋において敗北が決定することぐらいの自明の理が存在する。

 でも、どれも楽しみたいことは事実である。僕の感覚の中ではそれぞれが別人なのだ。Aという分野、Bという分野、Cという分野。それらを練習し、楽しむ自分はどれも別人だ。スイッチしている。もちろん性格も人格も見た目も同じで、他の人から見たら同一人物のはずだ。僕自身もスイッチを切り替えるようなデジタルな意識変換はない。

 だが、僕は一つ一つをデジタルに区切っているのだろう。形而下的には。しかし、それらはどれもが形而上では有機的につながっているのだ。そのつながりを見いだすのが楽しい。形而下においては別々の自分が、形而上において一人の自分になっている。そう、僕が何か一つの分野に取り組んでいるとき、僕は二人存在しているのだ。

 一人は、そのもの自体を楽しんでいる自分。余計なことは考えずに、対象のみを楽しんでいる。この自分は粋であろうと思う。もう一人の自分はいささか野暮である。つまりは「この分野から得た知見を、どう他の分野において活かしてやろうか」と虎視眈々と効率化を狙っている自分である。ものの見事にこの二人は別人であり、自分の中でぶつかり合うこともしばしばである。だって、せっかく分野Aを集中して楽しみたいと思っている形而下的僕に「これは分野Bにも活かせるぜ。ちょっとそっちのことも考えてみようか」と形而上的自分が悪魔の囁きを送ってくるのである。正直困る。

 形而下的に楽しむ人格だけの人がほとんどだと思う。あるいは、形而下的人格が圧倒的に形而上的人格に勝る人が多くを占めるはずだ。そういう人は粋である。そのようになれた瞬間の自分はおそらく粋なのであろう。野暮になるときはやはり形而上のやつが現れたときなのだ。こいつは本当にやっかいだ。とても優秀で賢いのだが、無粋極まりない。個人経営の落ち着いた喫茶店に現れた、電話でがなり立てる営業マンのように野暮なのだ。追い出してやりたいこともしばしばだ(最初はこの人のことを気に入ってはいたのだが)。

 もちろんこんなことで自分を嫌いになりやしない。ただ、自分のコントロールができていないだけだ。運動神経の悪い人がスポーツを嫌いになるのは、自分の身体をコントロールできていないからだ。スポーツ自体がつまらないわけではない。

 というわけで、今後もう少しこの形而上的自分のやつをコントロールできるようになろうかと思う。これがおそらくヒューマン・プログラミングでいうところのコード進行と絡んでくることはぼんやりとは分かっている。