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前未来的語り部

懐かしい現在

国民総能力向上宣言

能力をつけるということ、それはスポーツにおいて筋力をつけるということに似ている。スポーツにおいてはもちろん技術が大切だが、実はそれと同じくらいフィジカルを鍛えることも重要なのである。

充実した筋力があれば自分のやろうとしている動きが実際にできるし、動きの可能な範囲が広がることによって、動きの質(技術)さえも変えてしまう事がある。テニスで肩や体幹の筋力トレーニングに真剣に取り組めば、サーブやストロークのフォーム自体も滑らかになり、上手く脱力ができるため、フォーム自体が改善されるように。

そう、本質(技術)を変えるためには質について考えるのと同時に、量的なこと(筋力)について考えることも肝要なのである。

語彙が増えるほど小説の内容自体が面白くなるように。画力が付けば漫画の方向性自体が良い方向に変わることのように。

 

お金を持っているからと言って幸せなれるとは限らない。

その通りである。しかし「だから幸せとお金を持つ事は関係がない」とは言い切れないことは自明だ。

「音感とリズム感に優れている人が優れた音楽家になれるとは限らない」という命題は真だが、「だから、音感とリズム感が音楽家としての活躍に関係ない」とは言えない。

能力もそれらと同型的である。「有能な人が幸せになれるとは限らない」。しかしだからといって「能力と幸福度は関係ない」とはもちろん言い切れないのである。

 

この国には、能力を上げること自体の教育が行われることは極めて少ない。学校では勉強や体育については教えられるが、「どうやったら勉強や体育ができるようになるか」という授業が行われることはほとんど皆無である。僕は昔からそこがおかしいと思っていた。勉強やスポーツができるための抽象的な法則は必ず存在するし、それについて少しは教えてくれてもいいのではないかと思っていた。それらについて生徒同士で議論するのでもいい。

しかし、そういうことはやらない。

なぜか。そのような形而上学的な方法論は確立されていないし、なにより扱いにくいからだ。

扱いにくいのであれば、扱いやすくすればいい。簡単なことだ。誰でも簡単に「どうやったら能力を上げられるのか」という情報にアクセスでき、それらの方法論を操作できる技術を持てる環境を作り出せればいい。Wikipediaのように。githubのように。その環境は誰かが作らなければならない。誰がやるのか。

僕がやる。