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前未来的語り部

懐かしい現在

消しゴムのかすを添えて

メタファーであり、フィクションである。

 

僕は消しゴムのかすが散らばっている時に、それを放置せずにきちんとこまめに捨てることにしていた。秩序は継続性のもとにしか築かれないことを知っているから。ゴミ箱が近くにあったら手で消しカスを払って直接捨てるし、備えつけのゴミ箱か共用のゴミ箱の場合はティッシュで一度くるんでからゴミ箱に捨てる。

消しゴムのかすを捨てると気持ちがすっきりし、次の作業に少しばかり気持ちよくとりかかることができるのだ。そういうことを面倒くさがらずに行うことは、そうでないことよりも良いことだ。そう信じて疑わなかった。

 

ある日恋人に言われた。

「消しゴムのかすをこまめに捨てる人って好きよ。こまめで丁寧で仕事も勉強もできるって感じ」

それは違うと思った。なんで消しゴムのかすの運用方法によって仕事における能力の多寡を測ることができるのか。極めて疑問である。

仕事とは、経験や知識、手際の良さや責任感の有無によって測られるべきものであり、決してささいなルーティンによっては計測されえない。しかし、彼女ははき違えている。消しゴムのかすが仕事の出来・不出来を決めるものだと。 

僕はその瞬間「めんどくせっ」と思ってしまった。なにがめんどくさいのか、その具体的対象は分からない。価値観がずれている恋人の発言にか、それによってこのような不可解な思念を巡らす自分にか、はたまた書いたものを消すたびにカスが出る現時点での筆記法にか。

僕は音楽を聴いた。そのめんどくささから逃げようと思ったのかもしれない。JAZZを聴いた。ジョン・コルトレーンの「Dear Lord」の優美かつ軽やかなサックスが天空から落ちて来て、僕の心から取り除こうとした感情の滓を洗い流してくれた。その瞬間に気づいたことがある。

「曖昧にしておくのも良いじゃないか」と。めんどくさいものは、そのままにしておけばいい。無理にメスを入れてその身体に傷をつける必要はない。病巣を抱えたまま生きればいい。もっとチョコレートを食べればいい。酒を飲めばいい。消しかすは机の上に添えておいた方がきれいかもしれない。

そう思えれば、僕はいずれもう一度消しゴムを使うようになる。あまりにも自然なので、ゆびにできてしまったタコのようにいつのまにか消しゴムは手に付着していることだろう。