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前未来的語り部

懐かしい現在

ファッションセンスの功罪

 ファッションセンスに卓越した人の一部に、その巧みな着合わせがあるにも関わらず見ていてあまり気分が良くならない人というのがいる。などと言うと私個人の僻みのようにしか聞こえないかもしれないが、これは「ある程度経験則」である。だからといって、ファッションセンスのない人が人間的にできているのだと言い切れるわけはもちろんないのであるが。


 ファッションというのは自分を着飾ることを目的とした技術である。言い換えれば「実際の自分」よりも自分を大きく見せることができる代物ということである。ある程度のお金とある程度のファッションに関する学と最低限のセンスがあれば、街を「堂々と」闊歩することができる。これは案外すごいことである。というか、効率的なことである。これほど簡単に、そして持続的かつ安定的に他者からの承認が得られる方法論は他にはない。だから自分に自信がない人にとっては「ファッションセンスを高める」というのが、自信をつけるのに最も手っ取り早い方法の一つとなる。


 車の運転をすると人は傲慢になりやすい。いつもならば身長170センチメートルの生身の人間もひとたび車を動かすことになれば、大きな鉄の塊と自分の肉体を想像的に同化させることができるからだ。身長の高い人がどこか自信に溢れているように、鉄の塊と同化している人は、車に乗っていないときと比べてどこか自信に満ちている(あるいは、傲慢になる)。人間は自分の身体的サイズと人格的サイズを混同する生き物だからだ。


 卓越したファッションセンスは、歩行しながらあたかも車に乗っているような気分になれる魔法のような能力である。自分の人格的サイズを肥大させることができる。
 さて、世の「ファッションセンスに卓越した人」というのはこの構造を理解していながら、日々そのセンスを練磨しているのだろうか。私は懐疑的である。いやしくも「ファッションによって自分の身体サイズが大きくなっている」という(言葉にならないまでも)感覚的な自覚があるとするならば、彼ら・彼女らの性格はあそこまで悪くならないからだ(ファッションセンスも性格も良い人には申し訳ないが)。人格的に成熟していない人が自分に法外な自信を持っている時こそたちの悪いことはない。その自信の質はきっと良くはないからだ。


 「自信の質が良くない」とはどういうことか。それは、他人の気分を害する自信だということである。他人の気分を良くしてくれる自信というのは存在する。その人と接しているとどこか元気が出て、自分も何か大きなことが成し遂げられるのではないか、これから何かチャレンジしてみようか、この人について行ったら自分が成熟に導かれるかもしれない、などと期待を湧かせてくれるような自信である。それらは「質の良い自信」である。


 一方「質の悪い自信」というものがある。これは要するに「傲り」である。その人と接しているとなぜかエネルギーを奪われ、その人の劣位に位置する自分を許容することが難しく、人を見下している態度が言葉や所作の節々に現れ、敬意を抱くことができないような自信である。


 ファッションセンスに卓越した人は、この「質の悪い自信」を持っていることが多い(気がする)。しかし、それは「ファッションセンスを磨くことはやめるべきだ」という警句を導くものではない。だって、ファッションセンスの優れた人が街中にいたら、なんて素敵で目に楽しい街並みになることだろうか。それ自体はとても素晴らしいことである。問題はそこではない。私が憂いているのは「私はファッションによって人格的サイズが大きくなっているような錯覚を得ているのだろう」という自覚を持つことによって、節度のある態度が取れる「大人」が少ないということである。それは車の運転手が「私はこの鉄の塊と身体的に統合し、それによって人格的サイズも肥大している状態にある」という自覚を持つことと構造を一にする。大きな車(バスやトラック)の運転手が傲慢な性格になりやすいのと同じように、ファッションセンスが高い人こそ、こういった「傲りの自覚」がないとそれこそ無自覚的に性格が悪くなっていく。


 ファッションセンスを磨いて自信を持つことは良いことだ。矛盾するようだが、ファッションから得られる自信自体は悪いものではない。休日に一日中パジャマで過ごすのと、ピシッとした服に着替えるのとでは、その日一日の生産性に大きな差が出るだろう。これは紛れもなく「ファッションから得た自信」による効果である。これを有効活用することは責められるべきことではないし、むしろ奨励されるべきことだ。


 それはそれ、これはこれ、である。ファッションから得た自信はファッションから得た自信に過ぎない。きちんとしたファッションができることはその人間が敬意を抱かれるようになる遠因にはなっても、その直接的・単一的原因には決してなりえない。


 というようなことを言葉で説明するのはなかなか困難で煩わしい作業である。このような知的営為を意識的に行いなさいなどと人々に勧奨しようというのは私の企図するところではない。しかし、なんというか、言葉で説明できなくても直感的にこれくらいのことは分かってほしいのである。自分の心理状態を日ごろから具に観察できていればこれくらいのことには意識が及ぶはずなのだ。となると問題の発端は、「自分に対する観察能力の低下」にあるのではないかと私は思い至ったのであるが、これに関しては長くなりそうなのでまた今度。(それとも「傲慢な自分」というものに違和感を感じる価値観というものが衰えているのかもしれない。どちらにせよまた今度書くつもりだ。)