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前未来的語り部

懐かしい現在

春樹を読みながら開発はできない

なるほど、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだり、上原ひろみ『Haze』を聴いて、自己の深いところまで潜りセンシティブになっている状態で、プログラムでの開発なんてできないんだ。

プログラミングという行為は、システムに特化した行為であり、物語やら音楽に浸って感性を鋭くすることとはまるで対極に位置するものだからだ。

それはたこわさを肴にしてボウモアを飲むようなものであり、雨の降る公園で恋人とバドミントンをするようなものである。

二つの事象は決して両立はせず、僕はどちらかに没入し続けるか、あるいはその日ごとにどちらの自分でいるかを選択しなければならない。

もちろん最もクリエイティブな開発(いや、それはもう「開発」とは呼ばない)は感性が鋭くなっている状態に訪れることもあるし、そういうときはクラゲのように力を抜いてその抗し難い海流に身を任せればいい。

だが、アイディアはすでに固まりあとは手を動かせば良い、という段になったときはこの限りではなかろう。

非常に悔しいことだが、僕は尖った感性を鞘に仕舞い、「スターバックスMacを開く人間」にならなくてはならないのかもしれない。

あるいは、いつか「スターバックスMacを開く人間」にならないでも多くのプロジェクトが進んでいく環境を手に入れるために、今は守りのラリーを続けるべき時期なのかもしれない。

どれほどのトップテニスプレーヤーでも、必ずゲームの中でしっかり我慢して守りのラリーを続けなければならない局面というのは来るものだ。終止守りでいればいいというわけではないが、そのうち来る攻めの局面をつくるためには自分のやりにくいプレーを強いられることも受け入れるべきなのだ。

僕は今あまりに自由な身でいる。だから、感性がソフィスティケイトされる一方で我慢ということを忘れがちである。

もう一度、守りの戦い方というのを思い出そう。だが、それは決して難しいことではない。

一時的に、かつての自分に戻るというだけのことなのだ。