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前未来的語り部

懐かしい現在

人生というのは砂漠のようなものなのかもしれない

村上春樹国境の南、太陽の西』にこのような会話がある。

「誰かの人生というのは結局のところその誰かの人生なんだ。君が誰かにかわって責任を取るわけいかないんだよ。ここは砂漠みたいなところだし、俺たちはみんなそれに馴れていくしかないんだ。なあ小学校の頃にウォルト・ディズニーの『砂漠は生きている』っていう映画を見たことがあるだろう?」

「あるよ」と僕は言った。

「あれと同じだよ。この世界はあれと同じなんだよ。雨が降れば花が咲くし、雨が降らなければそれが枯れるんだ。虫はトカゲに食べられるし、トカゲは鳥に食べられる。でもいずれはみんな死んでいく。死んでからからになっちゃうんだ。ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとは砂漠だけが残るんだ。本当に生きているのは砂漠だけなんだ」

 

確かにそうなのかもしれない。

僕たちは過去の自分が望んだものを手に入れて、成長したとしても、どうせまた足りないものを探してしまう。

だが、既に手に入れたものも、手に入れたいと願うものも、失いたくないと守るものも、結局はすべて残らず消えてしまう。真に生きているのは砂漠だけなのだ。

砂漠から始まり、砂漠に終わる。その途中に色んな生命や出会いや別れや名誉や挫折が生まれ、死んでいく。

砂漠の上のものはすべて後から生み出されたものであり、予め用意されたものではない。

だから僕たちは砂漠で一時的に生まれたドラマを受け入れるべきなのだ。砂漠の上で起こるあらゆる出来事は、映画館で観る観客を引き込ませる魅力的な映画のように、ある種の「作品」と言って差し支えない。

そこで花が咲くのも、花が枯れるのも、いずれも過ぎ去って行くことが宿命づけられたコード進行。

砂漠の上で「完璧」を狙っても、一体それにどのような意味があるというのだろう。僕たちがせめてできることは、砂漠の上で雨が降ったときに咲いた花にまず目を向け、それを慈しみ、雨が降らなくなったときに枯れてしまった花を思い出し自然に悲しむことぐらいなのだ。

たゆまぬ努力は確かに立派だ。その結果得られる勝利もあるだろう。

世界から目を伏せられた幸福に出会うことも、I LOVE YOU.と歌うこともあるだろう。

だが、それはその人が選んだ「砂漠」において花が咲いたということ。

僕たちが立っているのは常に砂漠の上だ。月を目指すのも、泥まみれになるのも、それは僕たちの自由だ。