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前未来的語り部

懐かしい現在

音楽的嗜好を媒体とした「緩い連帯モデル」の試論――第3回「FoZZLOVE!会」開催に伴って

 先日FoZZtoneという日本のロックバンドが好きな人たちで集うオフ会「FoZZLOVE!会」を開催した。TwitterやLINEなどのオンライン媒体を経由して参加者を募り、多種多様な境遇を持った8名のファンが、池袋の居酒屋で音楽談義と雑談を楽しんだ。おかげさまで非常に愉快でリラックスし、かつ刺激的な雰囲気の中、会はお開きになった。

 形而上的にこの会についての考察をしてみる。
 この集まりの美点は、音楽の趣味で共通項がある一方で、その他の条件に関しての一致はまったく設定されない点にあると思っている。まず、音楽の趣味が合うというのはとても大切なことで、一つの「共通の話題」があるという外形的側面はもちろんのこと、「同じ音楽の趣味を持っている人たちである」という内面的かつ精神的側面においても、一定以上の安心感と一体感が担保される。ベン図で言えば、すべての参加者が一定以上の面積の重複を作り出している状態から話始めることができる。
 同じサークルや職場に属している、あるいは住んでいる地域が近い、ということが理由で集まるのももちろん魅力的なものだ。だが、それらのモデルと本稿が取り扱うモデルで異なるのは、設定されている参加条件を参加者が持つ外部的要素にするか、それとも内部的要素に置くかによる違いである。
 外部的要素を基軸とした集まりの場合は、確かに「共通の話題」が多い。同じ組織や地域に属していると、普段の生活の中で見る景色や、人間関係の近似性が高いからだ。同じ景色を見ている人は、同じ景色について語れる。同じ条件の元で働く人は、同じ立場に立脚した上で、過去や未来を語ることができる。共通の話ができるということは素晴らしいことで、それだけで私たちは自分が一人ではないこと、楽しみや苦しみを共感してもらえる人がいることを確認し、心が安らいだりする。
 しかし、同じ景色を見ていればいるほど、違う景色についての話は現れづらくなってくる。これはもちろん「欠点」と呼べるほど明確な欠如であるわけではないのだが、内部的要素による連帯との対比によって浮き彫りになる一つの「差異」であることには疑う余地がない。それは米国に訪れ、頼もしくはっきりとした自己主張が自然に行える国民性を垣間見た後、日本に戻って互いの隠れた意図を察することを自然に求め合う空気感を色濃く感知することと同型的である。内的要素をとっかかりとして(特にオンラインを経由して)集まった人たちは、自然と外的要素が散けることになる。「FoZZtoneが好きで、彼らの音楽について話してみたい」という理由から、Twitterで応募をしてきてくれた人たちの間において、外的要素が一致する必然性のようなものは少なくとも表面的には一切ない。すると、普段はあまり接することのない職業や趣味や専門分野を持つ人と話すことができる。それでいながら音楽の趣味は合う。
 そして、音楽の趣味が合うと、そうでない場合と比較すると、他の好きなアーティストや個人的趣味嗜好、物事の考え方や、人生に対するスタンス(これは可能性として呈示する)において共通するものが多い。シンプルに言えば、FoZZtoneが好きな人たちは、どこかしら「FoZZtone的なもの(に共感するもの)」を持っている人たちなので話が合いやすい、ということである。それでいながら先述した通り外的要素の共通項は少ないので、「共感できる新しい発見」が多くもたらされる傾向が強くなる。
 オンラインのインフラが完全に普及したこの時代だからこそ、このような「緩い連帯」は生まれやすい。オンラインによって生まれた緊密気味の人間関係や過剰な情報量についての賛否両論はもちろんあるだろう。しかし、それがこと「緩い連帯」の創出において多様な可能性を一般の人々に開放してくれたという点については論を俟たない。私たちは、チャレンジしようと思えばどのような色彩の「緩い連帯」も生成できる環境にいるのだ。
 これからも多くのアーティスト、作家、画家やその他諸々の趣味でつながる「緩い文化」が自然多発的に醸成されれば、さらなる愉快な「インターライン的生活スタイル」が確立されゆくのではないだろうか。