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前未来的語り部

懐かしい現在

自分の戦い方について

○オールアウトについて
 恐れ多さ極まるところではあるが、村上春樹が長距離走者であるならば、自分は短距離走者型の作家なのだと思う。作家といえども作品の作り方は人様々である。僕には僕に合った方法があるはずで、それを見つけるためにこの文章を書こうと思い立った。
 方法論の前に、まず非常に大切なことに気がついた。僕の残したいものは普遍的な「作品」であるということだ。陸上にあれだけオールアウトで打ち込めたのはなぜかときかれれば、それは「記録」というのが誰にも批判されることもなく、自分に言い訳することもできない普遍的かつ公平な「作品」と言える性質のものだったからだ。僕は走ることで「記録」という作品を作っていたのだ。
 小説を書く際にオールアウトで戦えているかが作家にとって大切なのだと村上はいう。村上には自身のスタイルが確立されているが、作家によってどういう対象にどのようなリズムと形式でオールアウトの戦いができるかは異なるはずだ。
 僕がオールアウトの総力戦で戦える対象は、そのような「作品=残るもの」をつくるときだ。一回一回の刹那的な「ステージ」においてはどうしても手を抜いてしまう傾向にある。それは弾き語りのライブや日曜講座の授業やBGMeetingにおいての準備の熱量と、Book Ground Musicのサイトや自分についてのアーティストサイトをつくるとき、あるいは『プレイリスト』という小説を書く際の熱量の差異において明確に現れた。
 また、リズムについては完全に短距離走のそれだ。予め決まった短い距離を全力で走りきる。短いリズムで全力を出せるし、そのような距離を走るときに最も快感を感じる。これは実際に脚を動かして短距離走と長距離走を走ってみた上でも同じことが言える。身体が好むリズムは、精神の好むリズムでもある。
 『プレイリスト』を書き上げたとき、その二週間は一切手を抜かなかった。あの時の熱量は完全にオールアウトそのものであったし、自分の全てを出し切って作品に魂を移したという確かな感触とこの上ない多幸感があった。仮に二ヶ月であればそのような景色は見えていなかったと断言できる。
 形式的な点においては、締め切りを必要とする。それは「やらされないとやらない」という受け身的な締め切りではない。むしろ他人が決めた締め切りは僕にとっては逆効果で、それが大きな力を持つのは自分が設定した(あるいは選んだ)締め切りにおいてである。かつて陸上の大会で記録更新を目指すための練習で、200メートルを30秒以内に3本走り切ると決めたら、ペースを上げろと急き立てるコーチや隣を走るライバルなどいなかったにも関わらず、僕は真冬の深夜に温かい自分の部屋から出て、まるで宇宙船から外の広大かつ孤独な宇宙空間に出ていくかのような理不尽な寒さの中に飛び出し、近所にあるトラックで、走り終わったら倒れてしまうくらいに自分のエネルギーの全てを費やして走ることができていた。『プレイリスト』も、「群像新人文学賞」という理想の応募先と締め切りを自分で選び、二週間という一般的に小説を書き上げるには極度に短い執筆期間を設定し、その期間内に少なくともそれまでの人生において最も全方位的かつ全力のエネルギーを費やして小説を書き上げることができた。締め切りというゴールラインが見えるからこそ、惜しみなくエネルギーを注ぐ事ができたのだろう。
 もう一つ形式については、「一人の勝負」ということが大切に思える。これはきっと一人っ子という自分の育った環境が影響しているのだろうが、一人で好き放題暴れられるという環境でないと、僕は本気かつ自由になれない習性のようだ。反対に複数の人と同時並行的に同じプロジェクトにぶつかっていく場合は、きっと他人に気を遣ってしまったり、甘えてしまったりしてしまう。幼い頃からチームプレイというのがどうも苦手で、どこまで自分を押していいのか、あるいはどこまで他の人の立場を尊重したり、意見を受け入れたりしていいかが肌で分かっていない印象がどうも拭いきれない。自分を押そうとすると極限まで自分のやり方を通そうとするし、他の人の活躍を尊重すると必要以上に身を引いてしまい、本来持っている力の5割程度しか出せなくなってしまうのだ。もちろん後天的な努力や経験によってその塩梅を調整していくことはできるのだろうが、少なくともそのようなことに気を配ったりしている時点で、本気になってオールアウトする機会は損なわれてしまう。やはり自分は元々シングルス向きのプレーヤーなのだと思う。だが、そうはいっても孤独で戦い続けることはできない。一人の世界で空を飛んだり、地下に潜ったり、草原を駆け回ったりしたあとに、バトンを渡したり、それを評価してくれたり、足りないとこを補ってくれたりするような「誰か」が待っていなければ、襷を渡すときに倒れ込む駅伝選手のようなオールアウトは実現できない。つまり、ミクロで見たときはシングルスなのだが、マクロ的視点からはチームプレーといった形態が理想なのだろう。小説を書いたあとに、それを読んでくれる読者や審査員の存在なくしては、オールアウトは不可能である。ここでは主にミクロの視点で自分がどうすればベストパフォーマンスを出せるかについて考えていることになる。
 形式的なことについて最後に言えることがあるとすれば、一つのことに集中するということだ。昔から器用な方ではなく、一つこれをやると決めてその事だけを考えるときに全力を出せているが、同時に多方面に気を配らないといけない状況では、一つのことに取り組んでいるときに別の領域に対する意識がブレーキをかけてしまっている感覚がある。そう考えると、「これをやる」と決めたら、その期間は他のことを考えなくていいというステージみたいなものを用意しておくと力を発揮しやすい。小説を書いた二週間は小説のことだけを考えるために、それ以外のことは一通り整理をつけておいた。

 自分がオールアウトで真価を発揮できる状況というのが見えて来た。これまでの考察を踏まえると、それは「普遍的に残る一つの作品を、具体的な締め切りに向け、短い期間内で自分一人だけの力で作り切る状況」ということになる。そのような戦い方が最も性に合っている。そのことが分かった以上、現実的には全ての分野でそのように活動できないにしても、可能な限りその形態に近づけて、最大のパフォーマンスを発揮していきたい。そしてそのようなオールアウトの状態にすることこそが、「あの世」(非現実的世界)に突入するための唯一のチケットなのである。「あの世」と「この世」を意識的に移動することができれば、僕は本当に自由を感じ続けることができるようになれるかもしれない。

 さて、ここまではフォームについての話だった。いくらフォームが美しくて、それが自分に馴染んだジェネラルなものであっても、作品に触れる他者の魂を揺さぶれるという結果が得られなければ、そのフォームの研磨も自己満足的趣味に収斂してしまう。結果を生むのは、熱意であり、技術であり、集中であり、準備である。だが、もう一つ大きくてどうしても外せない要素がある。時間だ。自分が作り上げるものに対して、あるいはその途中にある各段階においてどれだけ納得できる時間を注ぎ込んだかが、その作品の納得性に大きく関わり、ひいては時間の淘汰をかいくぐって読者の心に届き続けるクオリティーのものになるかどうかが決まるのである。「時間によって勝ち得たものは、時間が証明してくれるはずだ」と村上は言う。
 このことを踏まえ、僕自身も時間をかけることについて考えてみた。具体的に言えば『プレイリスト』を書き直すかどうかについてだ。この小説において、フォームについては完璧だったと思う。一度書き上げれば今後も残り続けていく長編小説という作品を、二週間という短い期間、「群像新人文学賞」という自分が定めた締め切りに向けて一人の総力をもって書き上げた。その事実においては誰になんと言われても何の引け目も自信の揺らぎもない。だが、こと「この作品に十分な時間をかけたか。完全に納得のいくものを作り上げたのか」ときかれたら話は変わってくる。実際に誰かにきかれたことは今まではないが、自分自身で何度もこの問いにはぶつかってきた。そして、一度も「もう十分だ。何度も読み返し、点検し、信頼できる読者に読んでもらった上でその意見を取り入れ書き直し、直すところはもうない」と自分に対して答えることはできていない。その理由は非常にシンプルで、時間をかけていないから。
 『プレイリスト』はまだ改善の余地はたくさん残されているだろうし、費やすべき時間も多く残されている。しかし、日々の生活の中で書き直していくという選択肢はない。日常の空気の中では、地下深くに潜って、かつてそれを全力で書いていたときの熱量を再現できないからだ。言うなれば「この世」にいる状態で、「あの世」に突入できていない。非日常的な熱量と空気感の中で書いたものというのは、やはり同じトランス状態の中でしか書き換える権利を持たないのである。書き上げたものを書き直すという行為は、結局のところ「もう一度書く」のと同じであり、かつての自分が誠心誠意書き上げたものより優れた文章を書くには、もう一度同じようなオールアウトできる環境に身を置かないと、作品は改良されるどころか、クオリティダウンしてしまうことになってしまう。
 そこで、僕が作品に対して納得のゆく時間をかけ揺るぎないものに仕上げるには、「ある程度期間を置きながら短距離走を繰り返す」という方法こそがベストだということに思い当たった。一度作品を形にしたらしばらく時間を置き、何人かの信頼できる読者に目を通し意見や感想、解釈をもらった上で、再度確固たる決意と締め切りを用意して集中的に書き直す。それを納得のいくまで繰り返す。これはいわば「消去法」の答えである。僕にはこれしかできない。でも、この答えを出すまでには納得のゆく時間はかけて考えた。そして、これは小説執筆以外にも、あらゆる分野の「作品制作」において適用できる自分にとって最もジェネラルな方法論である。
 このスタイルを貫いている限り、僕は結果を残す自信が持てる。そして、その結果をきっと誰かに渡すことができる。マクロで言えば僕の仕事はここまでということになるのかもしれない。

○「インターバル」について
 オールアウト以外の期間をインターバルと呼ぶことにするとインターバルですべきことは、「オールアウトできる状況を準備すること」になる。具体的に言えば、サイトの運営や小説についての意見を聞いてからアイディアを得たり、退屈な事務作業をこなしておく必要がある。新しい分野の知識について勉強することもあれば、自分の内面を深く掘り下げたり、他の人について想像力を働かせたりする。多種多様な音楽を聴いたり本を読んだりするのもいいだろう。
 また、オールアウトでは大量のエネルギーを消費するため、インターバルでは力を適度に抜いておくことになる。とすれば、陸上のメニューに「200M走+200Mインターバル」も加えてみると、集中力の配分についてより自然な感覚が得られるかもしれない。もし、インターバルに追われたり、反対にインターバルでの準備不足によってオールアウトできない場合は、そもそもやるべきことの量やバランスが適切でないことを疑ってみるべきだ。そのバランスの調整のために、初めて他の人に「仕事を振り分ける」適切な量とタイミングと仕事の種類が見えてくるのではないだろうか。
一人で最大限のオールアウトをするために、インターバルで他の人との協力や支えが大切な要素となる。これで自分の中で、オールアウトをする作家としての面とインターバルをこなす経営者的な面を上手く切り分けられた気がする。

○戦場はどこか
 例えば、小説を書くとき、文章を書いては直しを繰り返していく中でより練られた物語に仕上げていく。それを細やかに何度もできるのは、それがペン(あるいはWord)で作られているからだ。これがもし映画を撮っているのだとしたら、そうも行かないだろう。一度手直しをする度に大きな手間と時間をチーム全体にかけることになってしまうからだ。そのため、映画の基になる脚本という設計書は確固たるものとして完成していなければならない。
 Webサイトをつくる時も同様で、設計の段階では何度も手直しをするべきだが、開発の段階ではなるべく修正はしないに越したことはない。大きな変更があった時にロスする時間も大変なものだ。もちろん現物を見ないと分からないこともあるし、また抜本的な変更を加える決断をする体験からしか得られない知見もあるだろう。だが、問題は「どうすれば良い作品を速く仕上げられるか」である。同じレベルの作品を仕上げられるなら、予算や時間的リソースの問題もあり、短い期間の方が好ましい。一度も完成品をつくらず、設計段階で色々迷っているより、さっさと現物の作成に着手した方が遥かに早いことだって往々にしてある。特にその分野において経験が少ない場合だ。身体が知らないことを頭でこねくり回してばかりだと大抵ろくな結果にならない(恋愛がその最たる例だろう)。だが何度か実際に自分で体験をして、いくらか勝手の知っている状態であれば、色んなパターンを想定したり、確固たる骨組みを仕上げてから行動に移した方が遥かに無駄が無く、完成までに時間がかからなかったりする。それを踏まえて、今後は設計の段階でその完成度を高めてから大きな行動に移ろうかと思う。設計の中では行動を先に行うことは構わない。例えば、プロットがある程度書き次第、実際に小説を書き始めてしまってもいいということだ。それで修正があっても、そこまで大きな迷惑を誰にもかけずにすむからだ。

 以上のこともあり、もう一度机上の設計というものに真剣にフォーカスしてみようかと思う。かつては設計ばかりして行動が疎かになってしまったこともあったが、今は状況が少しばかり違う。
 まず一つ目に、今設計すべき分野はいずれも過去に行動を起こしてその過程や結果についての感触を肌で知っている。「全く知らないこと」というのがほぼなくなった。
 二つ目。設計が中途半端であると、他の人に迷惑をかけたり、自分が惨めな気分になったりすることを体験から学んだ。設計はそれ自体を「作品」として仕上げるべきだ。高い集中力を以て納得のできる時間をかけた上で、見る人を惹き付けるものでなくてはならない。どのような設計がクオリティーの高いものか、その判断基準を感覚がわかってきた。
 三つ目。上でも触れたが、時間をかけるというのは小説と同じく設計においても大切な要素の一つである。実際の行動に移すまでの多くの行程で、長い時間を練り込むことでしか、それを見る人に対して説得力のある設計にすることはできない。今はスケジュールがそこまで過密ではない。イベントはいくらかあるが、それでも以前より設計に割ける時間は増えた。

 行動と設計の二種類のタスクに分けられるが、僕の本業は後者だ。「過去の蓄積によって未来に風が吹く」のであれば、目的は「風を吹かせる」方だ。多くの人に風を感じてもらうことが自分の最たる務めである。過去の蓄積に関しては、設計を練り上げ説得力をもたせるための材料ぐらいの心持ちだ。良質な材料を得るためには良い行動をとるべきだが、それもまた良い設計から生まれるものだ。どちらも大切で、双方的なつながりがあり、一方を疎かにすることはできないが、過去の経験からいっても自分が本当に好きなのは設計の方だ。明らかにモチベーションが違う。設計の方に素質があり、大きな達成感を感じる以上、フォーカスするべきはやはり設計である。脚本家と映画監督は各々得意分野が違うから別の職業に分かれているのだ。
 ということで、僕の戦場は机の上に戻る。