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前未来的語り部

懐かしい現在

「幸せ」と「才能」について

 

 「幸せ」も「才能」も結局は「自分らしく生きる」ということで問題は解決すると思います。「幸せ」の一般的な正解もなければ「才能」の一般的な正解もない。それが僕の基本スタンスです。

 

 「幸せ」が何かを決めるのは自分だし、「才能」のありなしを決めるのも自分だと思っています。自分で幸せだと思い込めれば人生勝ちですし、自分の才能を見極めることができればその時点で勝ちだと思います。

 自分の才能を見極めた人は、それがあるにせよないにせよ、それを正しく生かす方法がわかるからです。天才なら誰がなんと言おうとその分野に携わり続ければいいし、「凡人だけど他のことよりは得意だ」ぐらいなら、その分野で周囲を支えればいいと思います。

 

 問題は「天才が自分は凡人だと自信を失っている状態」と「凡人が自分は天才だと勘違いしている状態」です。幾分極端に分けましたが、要は自分の才能のあり方と自己認識が大きくずれているとなにかしらの「生きにくさ」が生じることと思います。前者に関しては、天才は自分の才能を信じるために行動し続けたり周囲のサポートを受けるべきだと思います。「おれは天才だから誰の助けも必要ないんだ」というのはいずれ「めんどくさい人」になるだけです。後者に関しても行動し続けることで解決します。「おれは天才ピアニストだ」と思い上がっている凡人ピアニストはさっさとコンクールに出て「本物」にうちのめされるべきです。

 

 いずれにせよ、才能に関しての自己認識を正しく修正していくには、行動を続けて行くしかありません。至ってシンプルです。他人からの評価も大切ですが、一時的な評価に踊らされてはいけません。ゴッホが周囲からの一時的な評価を気にしていたら、どれだけの名作が絵画史から損なわれていたでしょうか。ゴッホは自分の絵を描き続けてその絵を見続けることで、自分の才能に関して揺るぎない自信を根付かせていったはずです。天才は自分の行動の結果や作品などを見続けなければいけません。それが天才の役割です。凡人も実はやることは同じです。色々行動を続けてみて、その中で分野なら自分は周囲を支えられるか、というオリジナルの生き方を見つけていくことに変わりはありません。天才だって凡人だって、結局は自分の才能で自分以外の誰かを支えてきます。そして、どのような分野においても完全に長所と短所が平板にならされている才能というのはこの世に存在しません。グラフにすればどこかしらが必ず足りなくて、どこかしらが突出しているはずです。「特に仕事ができるわけではないけど、あの人がいるだけで職場が元気になる」というのだって才能です。天才はその偏りが大きいだけで、凡人にも「才能」は存在します。

 

 大切なのは、自分の才能の偏りを正しく認識していくことです。それには行動していくしかありません。続けるしかないです。

 

 そして「幸せ」というのも結局はその偏りの自己認識の先に存在するのだと思います。天才が偏りをならして平均的な暮らしをしていても幸せじゃありませんし、凡人が自分の才能の偏りの少なさを認識できず平均的な暮らしを捨て続けると幸せはいつまでもやってこないでしょう。

 

 そして、才能の偏りを認識した上で行動を続けている人は、きっとその行動が楽しいはずです。他の人にとやかくいわれようが、自分はそうやって生きるという穏やかで強い覚悟があるので、苦境にも強いです。

 

 才能の認識というのは、覚悟のことです。

 

 別に「自分はこう生きる!」と大々的に宣言することだけが覚悟を決めることではありません。むしろ、大体は逆です。「自分はああいう風に生きることはできません。自分にはこれで十分です。幸せです。」と自分の心の中で諦念と共になされた決意も大きな覚悟だと思います。それで気持ちが楽になったら、それは覚悟です。今後の道のりの苦難さは関係ないです。覚悟ができると人の心と身体は軽くなります。その感覚がある人は覚悟ができている人なのだと僕は思います。

 

「幸せってなんでしょう?」

それは覚悟の先に待っているその人固有の生活のことです。

 

「才能ってなんでしょう?」

幸せに生きるために誰にしも必ず与えられているなんらかの能力の偏りのことです。

 

以上です。